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一般財団法人セブン-イレブン記念財団から、標記の案内がありました。興味のある方は、次のURLをご覧下さい。
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1921年4月に館野での高層気象観測が始まった。「長峰回顧録」(1950、大石)によると、当初、高層観測運用には一連の技術的な困難さがありそれが運用を遅らせる原因になった。1921年の終わり頃までに、定時観測の記録が整理されたが、信頼性のある気候(平年の状態)を示すことができたのは1923年の始め頃である。こうした経緯は、最初の年報の記事(大石、1926)から判読することができる。
1924年12月2日のことである。大石は晴天の館野で目を覚ました。前日に寒冷前線が通過した。1日と2日の地上の総観天気図をそれぞれ図5と図6に示す。彼が実施した観測の時点では描かれていなかったものだ。天気図からわかる特徴は次の通りである。
大石はこの状況下で、12月2日10時(地方時)に、120gの気球(約半径1m)を放球し、シングルセオドライトで追跡した。シングルセオドライトで軌跡を求める(気球の位置で風速を算出する)ためには、一定の上層速度を過程する必要がある。設計した上昇速度は300m/分で、30分後に上空9kmに達した。この観測で、ちょうど10km(33000フィート)より少し下層の高度に、風速72m/s(約140ノット)の明瞭な西風があることが捉えられた。大石が描いた鉛直方向の風速分布を図7に示す。
セオドライトに関する工学的な知識がないと風速の測定誤差の検討は困難だ。現在の時点でイギリス気象局が定めた高層観測指針(1961)に照らし合わせると、高度10kmで約±15m/sの誤差が考えられる。この計算は、方位角と高度に0.1°の誤差を考慮したもので、大石が行った手順(大石、1926)と西風の安定性を考えると、この時の風速誤差は±10m/s以下と考えることができる。つまり大石は、風速62m/s~82m/sと考えられる強風帯を発見した。
この時代の若い研究者による海外留学は、西洋の科学を日本へ移植する使命ともいうべき役割があった。これを果たすために、明治時代を通して約600名の日本人が海外に留学した(Basalla, 1967)。当初は、留学先がフランスとドイツだったが、20世紀の初めころになるとアメリカが加わった。
前回、表1に示した大石の履歴をみると、第1次世界大戦の始まりが高層気象観測の計画の一部に影響したことが想像できる。つまり、大石は1913年の始めにドイツから帰国したが、これはヨーロッパの情勢が不安定になったためと考えられる。これを裏書きするように、1914年8月に日本はドイツに宣戦布告し第1次世界大戦が始まった。大石は大戦後の1919年10月にアメリカを訪れ、高層気象観測のための機器類を調達することになった。「長峰回顧録」(大石,1950)によると、次のことも記述されている。彼はアメリカ滞在中に、インディアナ州のRoyal Centerとノースダコタ州のEllendaleの高層気象観測所を訪問した。
大石は、アメリカへの出発の前に、高層気象観測に適した土地を見つけるために東京の外縁地帯を巡検した。東京の北東方面へ旅行した際に、太平洋に隣接した障害物の無いほぼ12万坪ほどの広大な低平地を見つけた。富士山はこの地の南東160㌔で、気象要素の一つである視程の観測の指標として都合が良さそうだった。こうして、中央気象台は1919年8月にこの地、館野、を観測施設の用地として確保した。まもなく1920年に、館野高層気象台の主要な建物が完成した。大石は、の館野高層気象台の台長となることが約束されていた。思えば、1910年(明治43年)に鹿島灘沖で多数の犠牲者をだした海難事故が発生し、天気予報のための高層気象観測の重要性が認識されて依頼、10年が経過していた。
初代高層気象台台長となった大石和三郎がどのような人物だったかは、あまり知られていない。高橋ほか(1987)がまとめた「気象百年史」によると、上層の強風帯を発見あるいはジェット気流の存在を推論とある。同時に、エスペランティストだったことが記載されている。エスペラント語は、1887年にポーランドの言語学者、ルドヴィコ・ザメンホフが発案した言語で、母国語を補助すると同時に全ての国の人々が使用することを目的に創られたものである。大石の高層気象観測に対する思いを知るのは、死の直前に書かれた遺言ともいうべき文章「長峰の思い出」(大石、1950)によるところが大きい。
大石の生まれた時代を顧みる場合に、同時代の代表的な気象学者である岡田武松の経歴と並べてみると興味深い。表1に大石、表2に岡田の経歴を示す。これらは、二宮(2014)から引用したものだ。同じ1874年(明治7年)に、大石は佐賀県、岡田は千葉県で生まれた。彼らが誕生したのは明治維新まもない時期である。明治政府は、百年におよぶ鎖国の後に西欧諸国に扉を開き、新しい知識を積極的に受け入れた。教育についても新しい施策が急速に日本全体に浸透していった時代である。
ここで、大石と岡田の経歴を比較してみよう。学齢は、3月生まれの大石が8月生まれの岡田より一年早いため、一年先に東京帝国大学(1877年開学)を卒業しエリートとして社会に出た。20世紀初期の統計によると、小学校6年間の教育を受けた者のわずか1/1000がトップクラスとしてその後に続く最高学府で大学教育を受ける状況だったことがわかる。かれらが学んだ物理学の分野は、日本で最初に理学博士号を取得した山川健次郎が率いる難関だった(Watanabe、1976)。
山川健次郎について少し。彼は1854年に会津藩士の子としてうまれ、会津戦争に破れて越後へ敗走した辛い経験がある。明治維新の後、アメリカへ留学して1875年(大石や岡田が誕生したころ)にイェール大学で物理学の学位を取得した。帰国後、1888年に東京帝国大学から国内で最初の理学博士号を授与され(全部で25名、理学博士は5名のなかのひとり)、1901年に48才で東京帝国大学総長となった人物である。山川の親戚には戊辰戦争を戦った武士や白虎隊が多数おり、家系図を見ると「自害」で命を絶った者が何人もいる。鹿鳴館時代に活躍した大山(山川)捨松は末の妹、また白虎隊で唯一の生き残りとなり明治時代を生き抜いた飯沼貞吉は従兄弟にあたる。ついでだが、私の父の祖父も山川の従兄弟の一人で、このたび大石や岡田との繋がりを知って驚いた。
話しを元にもどす。大石も岡田も、東京帝国大学を卒業後に中央気象台に勤務した。同じ気象学を志す同年齢のふたりは、お互いによく知っていたに違いない。だからこそだと思われる、その後の気象学へ取り組むアプローチは大きく違った。
ふたりの経歴は時間的にはシンクロするが、相対する部分が多い。大石はひとあし先に統計課長、観測課長となり観測畑を歩んだ。岡田は少し遅れて予報課長となり理論家としての地位を築いた。大石は、ドイツとアメリカへの留学を経て、1920年に高層気象台の初代台長となる一方、岡田は同じ年に海洋気象台(神戸海洋気象台)の初代台長となった。大石がドイツ留学中の研鑽を積んだリンデンベルグ高層気象台は、1890年代にヨーロッパで最初の高層大気観測を行った場所である。彼はこの時に、測器製作者であるR.Assmannやその同僚H.Hergesellの傑出した業績に巡り合う。またリンデンベルグ高層気象台には、その後に大気境界層の研究者達を排出するに相応しい豊富な高層大気観測データが揃っていた(Hesselberg and Sverdrup, 1915)。
さてここで、今後のストーリーの展開に関わる次の点を付け加えておこう。すでに述べた通り、大石は、1910年(明治43年)に鹿島灘沖で発生した暴風雨による海難事故を防ぐために重要な高層大気の観測のため、高層気象台を設立する命を受けて世界最高水準のリンデンベルグ高層気象台へ留学した。丁度その少し前に、欧米を視察中であった寺田寅彦が、新しい領域である高層気象観測の将来性について岡田武松へ次の主旨の書簡を送っている。それによると「どこへ行っても高層気象観測が始まっている。日本ではどうしているかと質問される。観測方法は比較的容易と考えられるので日本でもすぐに始められるのではないか。是非、君の力で始めたらどう。海洋気象観測についても見聞したが、これも特別な局がなければ難しい事業である・・・」(堀内,1957)という具合であった。
結局、寺田の情報と勧めにも関わらず、岡田は高層気象観測には携わることはなかった。明治政府は、中央気象台観測課長を経験した大石を高層気象観測の責任者として考えていたためである。岡田はといえば、大石がドイツへ向かった1911年に、学位論文「梅雨論」を完成させて理学博士号を取得した。大石が未開拓な分野に取り組む選択するような性格であった一方、岡田は緻密な議論を積み上げて裏付けを探求するタイプであったと思われる。ところで、実学としての気象学は、時間とともに二人に類似の圧力を与えるようになっていったと想像される。一方は航空を司る陸軍、他方は船舶を司る海軍が巨大化する構造のなかで、徐々に大戦へ向かう時代であったと考えられる。
1947年に、今から70年ほど前、シカゴ大学の気象学部に所属して解析に当たった研究者達「スタッフメンバー」によって、ジェット気流に関する名高い論文が発表された(Staff Members, 1947)。この論文は、ロスビー(1947)とリール(1948)らの大気大循環に関する研究に新しい知見を加え、ジェット気流の理解に向けた研究を推し進める契機となった。スタッフメンバーの論文には、極前線上の圏界面に広がる傾圧帯の図を目にすることができる。現在明らかになっている、半球を周回するように屈曲する流れが現れる現象の詳細な力学的背景は、まだこの時代には明らかになっていない。リールの研究では、北アメリカ大陸上の西風が取り上げられていて、2~3日間続くことが示されている。風速の増大は、太平洋岸上空から東側に延び、さらに西部大西洋にまで広がることが示されている(Riehl, 1948)。
大石和三郎(写真:晩年の肖像、前回のLewisの報告書より引用)は、館野高層気象台を創設して高層気象観測を行い、高層気象に対する自らの興味と使命のなかで、圏界面の少し下層に現れる強い西風、すなわちシカゴ大学のメンバーがジェット気流と命名することになる強風を、彼らより約20年先んじて観測し、図に示した。しかし、発見者として国際的に認められることはなかった(少なくとも、現時点でのジェット気流をめぐる科学史では、発見者とされていない)。何故なのか?その理由について、幾つかの報告書類を資料に探るのがこのシリーズの目的である。見えてくるのは、科学技術の発展と時代的な情勢との巡り合わせの複雑さであり、気象観測に対する大石の飽くなき使命感である。