シティ・ウォッチ・スクエア

風に吹かれ、波の音を聞き、土に触れ、地域の環境を知り、未来を考える

TEL.050-5586-0381

〒251-0023 神奈川県藤沢市鵠沼花沢町1-14

07月

大石和三郎と高層気象観測 (12)エピローグ- 高層気象研究のパイオニア  (7月27日)

今から70年ほど前、1947年、シカゴ大学の気象学部に所属する研究者達が、ジェット気流に関する名高い論文を発表した(Staff Members, 1947)。この論文は、同時代に行われたRossby(1947)とRiehl(1948)ほかの大気大循環に関する研究に新しい知見を与え、ジェット気流の理解を推し進める役割を果たした。スタッフメンバーの論文には、極前線上の圏界面に広がる傾圧帯の図が描かれている。風速の増大は、太平洋岸上空から東側に延び、さらに西部大西洋にまで広がることが示されていたが、まだこの時代には、詳細な力学的背景は明らかにされていない。

大石は、館野高層気象台を創設して高層気象観測を行い、圏界面の少し下層に現れる強い西風、すなわちシカゴ大学のメンバーがジェット気流と命名した強風を、彼らより約20年先んじて観測に成功して図に示した。しかし、発見者として国際的に認められることはなかった(少なくとも、彼の生前に置いて、ジェット気流の発見者とされていない)。

彼は、幸運にも東京帝国大学で教育を受け、海外での経験も積んだ。写真は、1927年にドイツで開催された高層気象に関する国際委員会に出席した時のものである。中列の右から3人目が大石、前列右から4人目が「前線」の概念を組み立てたノルエェーのビャークネスである。その他著名な気象学者達が勢揃いしている。

獲得した知識を糧にして、大石は、日本の高層気象分野の研究発展を推し進める有力な一員に成長した。それは、明治復興の初期に日本が描いた姿そのものだった。嫉妬深く顕微鏡のなかに秘密を閉じ込め、それが医学の進歩を遅らせることとなったレーウェンフック(前回記事参照)と違い、精力的に観測をおこない、研究結果を客観的な事実として他者に伝える努力を怠らなかった。日本の科学技術の歴史にとって、黎明期でありまた難しい時代に行われたこうした活動は、賞賛に値することである。(おわり)

関連論文
Riehl, H., 1948: Jet stream in upper troposphere and cyclone formation. Trans. Amer. Geophys. Union, 29, 175-186.
Rossby, C.G., 1947: On the distribution of angular velocity in gaseous envelopes under the influence of large-scale horizontal mixing processes. Bull. Amer. Meteor. Soc., 28, 53-68.
Staff Members, 1947: On the circulation of the atmposphere in middle latitudes. Bull. Amer. Meteorl. Soc., 28, 255-280.

国際委員会

大石和三郎と高層気象観測 (11)大石が夢見たもの (7月23日投稿)

科学の発展を考えるとき強く感じるのは、地味な作業を重ね最初に未知の現象を発見した人物の学術的な貢献度が非常に大きいという点である。例えば、レーウェンフックは1674年に独創的な発想で顕微鏡を発明して微生物を発見したが、顕微鏡の世界に没頭し自分の趣味の域を超えることはなかったといわれる。その後、顕微鏡の視界にいた微生物と病気の関係を解明したのは約200後のパスツールだった。

では、1926年に大石が観測した冬季日本上空に現れる強風層に関する知見は、高層大気の力学研究の発展にどのように寄与しただろうか。この問いに対して、さまざまな感想が浮かぶ。気象学史のなかで、大石が強風層を観測した直後の1930年代は、上層大気の流れの議論が活発に行われた10年間としてとらえられていた。中緯度の擾乱の鉛直構造に注目が集まり、それらの構造を支配する物理的な概念が確立された時代であった。もし大石が書いた論文が英語だったなら。未知の現象を解明しようとする純粋な好奇心に導かれて、大石は研究を行い、世界平和へ向けた社会的活動ともいえるエスペラント語の普及の一環として、彼は自信をもって論文を書いた。エスペラント語で。彼の経歴からすれば、英語での執筆も十分可能だった。

大石が高層の強風を発見したころ、アメリカやヨーロッパの気象学者は大石の観測について無知だった一方、日本の軍部はこの事実を知って戦争の手段として利用することを考えた。軍国化が進む時代の中で、館野高層気象台の役割にひとつの使命が課せられた。風船爆弾による襲撃計画が練られ、実践的な効果を高めるために上層風発現の季節性の解明などが必要となっていった。科学者はしばしば、自らが発見した現象が何に利用されるか知らないものである。

シカゴ大学の研究チームがジェット気流の礎となる論文を発表したのは、大石が死ぬ僅か2~3年前だった。当時は科学論文の成果の伝達の遅れがあり、大石はこの新しい研究を知ることは無かったと考えられる。もし知ったとしたら、自らの先見性のもと観測施設を創設し、苦労を重ねて実施した観測が間違っていなかったことに喜びを感じただろう。しかし、国際的にはアメリカの研究者に遅れをとったことについて無念だったのではないだろうか。(つづく)

大石和三郎と高層気象観測 (10)風船爆弾計画の実態 (7月11日投稿)

風船爆弾は、第2次世界大戦が敗北にいたる過程で、最後の冬に計画された断末魔の作戦であった。とにかく「風船」を使った襲撃なので、この名前を聞いた当初は、急ごしらえの計画で多くても一日に何個かの風船を放球する程度の小規模な作戦と思った。しかしその実態は想像と大きく異なり、極めて綿密に計画され、大量の人員と物資を投入し、季節限定ではあったが大規模で期待を担って取り組まれた作戦だった。

風船爆弾が風に流される経路の推定だけでなく、素材の和紙の品質管理(当初海軍は風船の材質にゴムを使ったが、製作時のコストの問題と重量が増す点で不利な部分が多く、後に陸軍が主導して和紙を素材に使用しこれが本命となり大量生産された)、接着剤としてのコンニャク糊の製法、表面のコーティング技術、ガス漏れを検知するスステムの構築、放球を悟られないための情報管理(発射基地は人里離れた太平洋沿岸部に複数箇所設けられたが、近隣の住民に知られないように作戦を実行する必要があった)など、どれを取っても高度な計画性と作業工程の厳格な管理のもとで実現された。この作戦そのものが成功したか否かは別なのだが。

この計画が実行される過程がMikesh(1973)に詳しく書かれている。一部を紹介しよう。当初、北米大陸の爆撃が可能か否かについて「非現実的とは考えられない」といった、消極的な意見のもとで計画が走り出した。実現には、多くの困難な問題が横たわっていることが想像されていた。問題解決のために中心的な役割を果たしたのが、登戸研究所である。科学者と技術者の最初の会議が1944年5月に行われ、その直後に「フ号計画」と名付けられ、この作戦に対して当時の金額で200万円の予算がついた(最終的な経費は900万円に膨らむことになる)。この段階で、藤原咲平(1941年7月に、岡田武松の後を受けて第5代中央気象台長)らが計画全般を指導する役割を担うことになり、荒川秀俊が嘱託の命を受けて気象部門の研究を分担した。

冬期の強い偏西風が現れる期間に、集中的かつ効果的な攻撃を決行する必要があった。1944年から翌年にかけた冬期に、1万発の風船爆弾を放球することが決まった。気球の素材は和紙で、1個の風船が全部で600個の紙片で構成されていた。和紙を貼り合わせる糊の素材にコンニャクイモを使ったが、食糧難の時期にこれは苦しい判断だったに違いない。

風船の漏れを検査するために、室内で約直径10㍍に膨らませる必要があり、大きな劇場などの建物が使用された。さらに生産個数が増えるに従って、建設費用を節約するために日劇ミュージックホールや国技館が提供された(写真:Figure 13)。検査に合格した気球は表面に保護用ラッカーを塗布した。これらの作業には女子学生が動員された。大量生産のために数千人が作業に関わったが、かれらに対して何を製作しているかなどの情報が漏れぬよう厳しく統制された。

風船の製作が進む間、陸軍は計画実行部隊として気球連隊を編成した。彼らの仕事は、放球と放球後の追跡に相応しい基地の選定、風船に充填する水素ガス製造装置の開発、基地まで資材を運搬する経路の確保などであった。風船が北米大陸以外に飛んでいくことは避けなければならない。そこで、放球基地として福島県勿来、茨城県大津、千葉県上総一ノ宮が選ばれ、追跡基地として青森県淋代、宮城県仙台、千葉県大原が選ばれた。放球基地のうち、水素ガス発生装置を設置したのは上総一ノ宮だけだった(事実関係調査中です)。他は関東の化学工業会社から鉄道で運んだ。

こうして、1944年8月には、試験的な放球が行われるにようになった。8月29日に実施した放球試験の結果を図(Figure 10)に示す。3日間の追跡記録で、刻々高度が変化する様子が描かれている。日没時に高度が上昇する様子、バラスト投下で高度を制御する様子が読み取れる。この2ヶ月後から実際の風船爆弾攻撃が開始され、翌年の4月上旬にかけて合計9,300発が北米大陸へ向けて放たれた。最も頻繁だったのは、1945年の1月と2月で、それぞれ2,500発が放球された。(つづく)

参考文献
Mikesh, R., 1973: Japan’s World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Annals of Flight Series, Vol. 9, Smithsonian Institution Press, 85 pp.

日劇ホール 飛行バラスト