科学の発展を考えるとき強く感じるのは、地味な作業を重ね最初に未知の現象を発見した人物の学術的な貢献度が非常に大きいという点である。例えば、レーウェンフックは1674年に独創的な発想で顕微鏡を発明して微生物を発見したが、顕微鏡の世界に没頭し自分の趣味の域を超えることはなかったといわれる。その後、顕微鏡の視界にいた微生物と病気の関係を解明したのは約200後のパスツールだった。
では、1926年に大石が観測した冬季日本上空に現れる強風層に関する知見は、高層大気の力学研究の発展にどのように寄与しただろうか。この問いに対して、さまざまな感想が浮かぶ。気象学史のなかで、大石が強風層を観測した直後の1930年代は、上層大気の流れの議論が活発に行われた10年間としてとらえられていた。中緯度の擾乱の鉛直構造に注目が集まり、それらの構造を支配する物理的な概念が確立された時代であった。もし大石が書いた論文が英語だったなら。未知の現象を解明しようとする純粋な好奇心に導かれて、大石は研究を行い、世界平和へ向けた社会的活動ともいえるエスペラント語の普及の一環として、彼は自信をもって論文を書いた。エスペラント語で。彼の経歴からすれば、英語での執筆も十分可能だった。
大石が高層の強風を発見したころ、アメリカやヨーロッパの気象学者は大石の観測について無知だった一方、日本の軍部はこの事実を知って戦争の手段として利用することを考えた。軍国化が進む時代の中で、館野高層気象台の役割にひとつの使命が課せられた。風船爆弾による襲撃計画が練られ、実践的な効果を高めるために上層風発現の季節性の解明などが必要となっていった。科学者はしばしば、自らが発見した現象が何に利用されるか知らないものである。
シカゴ大学の研究チームがジェット気流の礎となる論文を発表したのは、大石が死ぬ僅か2~3年前だった。当時は科学論文の成果の伝達の遅れがあり、大石はこの新しい研究を知ることは無かったと考えられる。もし知ったとしたら、自らの先見性のもと観測施設を創設し、苦労を重ねて実施した観測が間違っていなかったことに喜びを感じただろう。しかし、国際的にはアメリカの研究者に遅れをとったことについて無念だったのではないだろうか。(つづく)