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12日

地学史研究会(2017/3/11)の報告

3月11日は各地で3・11の防災行事が行われる中、地史学研究会@於早稲田奉仕園アイビーハウスに行ってきました。
話題提供1 宮川卓也(日本学術振興会特別研究員)(東京理科大学工学部教養慎研究室)
演  題  帝国日本の台風研究:東アジア気象観測網と周辺性の克服
内  容  本発表は、19世紀後半に東アジアに進出してきた欧米人により本格化した台風研究が、日本の帝国主義的膨張に伴っていかに進展したのか、また「日本気象学」の形成においてどのような意味をもつと考えられたのか考察する。さらに、台風は東アジアのローカルな気象現象である一方で、その研究成果はより普遍的な気象学理論の構築に資すると主張された背景とはいかなるものだったのか、そしてその主張の意味するところは何だったのか議論する。
→演者は神戸大学国際文化学科(2006年卒)→ソウル大学科学史「20世紀初頭の韓半島」(2008)→「帝国日本の気象観測網拡大と梅雨研究」研究の目的は 1颱風研究の帝国版図の変遷との関係 2ローカルな現象に関する研究の成果は気象学者にとってどのような意味があるか。ハングル語で博士論文を取得した方。科学史研究者の中では異例な存在。博論の日本語版は今執筆中だそうです。
話は1「外国人の見た颱風」2「観測網の拡大」3「極東颱風論」4「室戸台風と日本気象学」
1 航海士クニッピングの天気図、ド・バーク台湾気象台長の評価(雲の形状の変化から颱風経路の予測)
→貿易商海運業者からの暴風警報の実施
2 1895年以降の日本人による観測の拡大(台湾の植民地化、那覇に気象台ができた)→1926年南洋群島、1941年満州、1942年東南アジア、→1945年観測所を失う。
台湾気象報文第2巻(1899)に「颱風の移動経路の分析」、岡田武松「”Zur Theorie der Taifuns”(1926)南洋群島のデータから颱風発生のメカニズム分析→先行研究の批判的検討、岡田武松「颱風雑記(気象集誌1914)→学問独立の時代(大日本文明協会1917)、欧米からの自立、
3 堀口由巳「極東颱風論」(1926)「低緯度帯において熱帯低気圧は中心に対して各気象要素は対称的に分布する構造を有する」
岡田武松「雨」(1916)→藤原咲平が絶賛
4  室戸台風1934.9.21、最低気圧684mmHg(911hPa)、瞬間最大風速60m以上
沖縄の颱風と異なり前線を伴っていた。原因は日本列島の複雑な地形、沖縄と四国では気候帯が異なる。
→堀口の理論を実証した。ベルゲン気象学の修正

話題提供2 長田敏明
演  題  鹿野忠雄の前半生:自然地理学者として
内  容  鹿野忠雄(かの・ただお、1906-1945)は、台湾の奥地に入り込み現地人と交流して、台湾の民族学草創期に活躍した人物である。現在では民族学者としての評価が定着しているが、この鹿野が、若い頃自然地理学とりわけ生物地理学にこころざし、台北高等学校から東京帝国大学理学部地理学科に入学して、辻村太郎や多田文男に学んだことをご存じであろうか。ここでは、着目されることが少なかった鹿野の前半生(1945年に38歳で台湾で消息不明)について、地学分野の人たちとの関わりの中で、先ず博物学者(昆虫学者)として、頭角を現していったことに触れてみたいと思う。

講演者を囲んでの懇親会が中華料理屋に移動し、17時半過ぎに始まり、2時間ほど質問をしたりして楽しい一時でした。
参加者には山本晴彦@山口大学教授様にお会いしました。先日メールをしたばかりで、林さんによろしくお伝えくださいとのことでした。東京方面に来ることも度々あるとのことです。またお会い出来ることを約してお別れしました。