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地球温暖化曲線の系譜

地球温暖化曲線の系譜(10)重要な海洋データ

地球規模の平均気温を求める際に、海洋データは欠かすことができない。しかし1970年代まで、海洋データの系統的な質的管理は行われず、その結果、代表性の高い地球温暖化曲線の作成に大きな制約があった。限られたデータで地球規模の平均気温の変動が描かれたことによる弊害は、1970年頃に議論の的となった寒冷化論(氷河期再来の予測)が象徴的である。見かけ上の地球規模の気温低下の要因の一つに、海洋データの欠如があったことは、前回に述べたとおりである。

当初、海洋データに含まれる誤差に関連して、次のような特徴が知られていた。Folland et al.(1984)を引用すると以下の通りである。(1)初期の海面水温は布製のバケツなどで海水を採取して測定したが、その後、船体内に海水を導入する方法に変わった。すると海水を引き込む過程で船体の発熱が影響することになり、洋上の気温の基準となる海水面温度は以前より約0.3~0.7℃高くなった。(2)海洋上の気温は船舶の速度で変化することもあった。一定の通風条件で測定する決まりがなかったためである。(3)風を受けた帆の風下の位置で気温を測定した場合には、帆が空気を温める効果により気温は高めになった。さらに、(4)温度計が日射や甲板からの反射を遮蔽しない方式であっため、気温は高めになる傾向があった。そもそも、(5)測定方法が記述された観測記録ばかりではなく、また、時代的にも船舶によっても、こうした状況はまちまちだった。

船舶データの活用に最初に取り組んだのは、オーストラリアとアメリカの研究者Paltridge and Woodruff(1981)だった。海洋上にも計算対象とするグリッドを設定し、できるだけ長期間について信頼性の高いデータベースを作ることを試みた。一般に、観測期間が短いとサンプル数が多い。そこで、夏(6月~8月)期間と冬(12月~2月)期間を個別に計算し、その後両者の平均から年平均値を求めることで長期に渡る変動を求めた。

パルトリッジ・ウッドラフの解析対象地域を図1(Fig.1)に示す。緯度・経度のメッシュで点を付けた部分は陸上の気温データがある領域、斜線の部分は海面温度データがある領域をそれぞれ示す。また右側の数値は、陸上(L)と海上(S)でデータがある領域の個数を示す。これらの領域の値を使い帯状平均値を計算し、さらにその平均値から全球の平均気温を求めた。

データの無い領域が非常に広大で、特に海洋域を中心として南半球のデータが少ないことが一目でわかる。このように限られた領域であったが、陸上および海洋上の気温を使用して図2(Fig.5)の結果が得られた。図の黒点が、彼らが求めた地球規模の平均気温である。図には同時に、地上の観測値のみから求めたミッチェル(Mitchell, 1963)の結果(詳細については前掲を参照)も描かれている。両者を比較すると、変動のパターンに位相が認められ、陸上のみから求めた結果と比較して極値が10~20年遅れて現れている。このような位相が現れる理由として、パルトリッジ・ウッドラフは、海洋の熱容量が大きいためと説明した。しかし同時に、変動のほぼ1サイクルに相当する期間しか示されておらず、今後の研究によるところが大きいとも指摘した。

前回述べた、サリンジャー・ガンが南半球で温暖化が進んでいることを根拠に寒冷化説に終止符を打った時期、それはまさに黒い点の最後の部分が示すように気温が高い時期に一致することが見て取れる。パルトリッジ・ウッドラフの研究は、海洋データの均質性の議論が十分ではなかったものの、学会の評価は好意的だった。というのも、彼らは海洋上気温の重要性に注目して全球平均気温の解析に取り組んだ先駆者だったからである。

この後、陸上と海上の気温データベースの整備が進み、緻密な解析を行ったのがJones et al.(1986)ほかの一連の研究である。ジョーンズの所属機関がイギリス(イーストアングリア大学)であることを考えると、なるほど海洋王国から生まれるべくして世に出た研究といえる。ジョーンズらの研究については後に解説する。

 

参考資料
・Paltridge, G. and S. Woodruff: Changes in global surface temperature from 1880 to 1977 derived from  historical records of sea surface temperature. Monthly Weather Revies, 2427-2434. 1981
・Mitchell, J.M.: On the world-wide pattern of secular temperature change. In: Changes of Climate. Proceedings of the Rome Symposium Organized by UNESCO and the World Meteorological Organization、 Arid Zone Research Series No.20, UNESCO, Paris, 161-181. 1963
・Folland, C.K. D.E. Parker and F.E. Kates: Worldwide marine temperature-fluctuations 1856-1981. Nature, 310, 670-673, 1984
・Jones, P.D., T.M. Wigley and P.B. Wright: Global temperature variation between 1861 and 1984. Nature, 322, 430-434, 1986

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地球温暖化曲線の系譜(9)温暖化の再開

エミリアーニによって明らかになった深海水温の変動周期とそれから推測された氷河期の到来に関する議論に対して、ミッチェルは1972年に次のように述べて断定した。ミランコビッチ周期に採用されている軌道変化などは、将来の気候変動に大きな影響を及ぼさない。予想される実態としては、人為的な効果が介入することで、どちらかと言えば現在の間氷期がさらに引き延ばされることが起こるだろう。活発化した産業活動は二酸化炭素などの温室効果ガスを大量に放出し、それが毛布のように地球を覆うことで、氷の世界への浸入が妨げられるだろう。

1975年にNational Academy of Sciencesが招集した最先端の研究者の会議で、こうしたミッチェルの考えに対し、暫定的だが同意が与えられた。氷河期に向かう強制力が及んだとしても、気温は上昇し、今世紀の終わりまでに予想される温室効果の半分程度が二酸化炭素による濃度上昇と考えるのが妥当とされた。また、地球化学者かつ海洋学者であるWallace Broeckerは、自然の周期の効果に疑問を持ち、率直な態度で、「気温の変動周期が太陽活動に依存するとしても、温室効果ガスによる温暖化を一時的に相殺するだけだ。今後20~30年後に、温室効果はどんな周期現象よりも卓越するようになる。」(Broecker, 1975)と述べた。そして次のように問いかけた。「我々はこれまでに経験したことのない地球温暖化の瀬戸際に立たされているのではないか?」

こうした意見が表明される一方で、1975年、二人のニュージーランドの科学者が、北半球が過去30年間に寒冷化したことと対照的に、彼らの住んでいる南半球では温暖化が進行しているという論文(Salinger and Gunn, 1975)をネイチャーに発表した。概要は次のようである。広大な海が分布する南半球では、観測地点の数が非常に少ないことは否めない。この点を考えると、議論の的になってきた1940年以降の寒冷化は主に北半球で起こっている。産業から排出された微粒子が温室効果ガスによる温暖化を打ち消す現象が北半球で起こっていたのではないか。要するに、北半球は世界の産業が集中して立地し、多くの人間が住んでいる地域でもある。人が住んでいればその周辺の天候が主な関心事になるのが普通だ。

1970年代初めに科学者達が抱いた寒冷化の進行の疑いは、この時点で崩壊しつつあった。ジャーナリズムは、今や気候科学者は二手に分けられ、徐々に温暖化に向かうことを指示する人数が増えつつあると書いた。良い例がラムで、彼は1950年代に気候の揺らぎに注目した気候学者である。母国イギリスの歴史記録を解析し、中世の温暖期に続く小氷期の時代の気候を再現した人物で、1960年代の寒い気候をもとに新たな氷河期が訪れるという自然周期の研究で目の前で進行している現象を説明しようとした。しかし、南半球で起こった現象の報告や1976年のイギリスの暑い夏を経験し、人為的な温室効果ガスの放出が西暦2000年ころまでにいわゆる自然の揺らぎを卓越するという考えに自ら至ることになった。

さて、この時期におけるこうした温暖化論の再生論は、学術的な発展で自発的にもたらされたのだろうか。否、それだけとは考えられない。なぜなら、1970年代後半には現実に地域により全球平均気温の上昇が始まっており、その裏付けとなる観測地点の時系列記録が、以前よりも早く人々が目にすることができる時代になっていたことも、温暖化論の再興の背景にあったと考えられる。

参考文献

  • Broecker, W.S.: Climatic change: Are we on the brink of a pronounced global warming? Science, 189 (4201), 460-463. 1975
  • Salinger, M.J. and Gunn, J.M.: Recent climatic warming around New Zealand. Nature, 256, 396-398. 1975

地球温暖化曲線の系譜(8)変動の根拠を求めて

科学者や一般大衆の間に、1970年代の気温が温暖化でも寒冷化でもないという認識が広がると同時に、少しずつではあるが地球の気候は動いており、それも規模が大きいと考えられるようになった。今や、安定した「標準」気候の存在を支持する議論は、希にしか聞かれなくなった。1970年代の初めには、世界中のさまざまな地域で一連の破壊的な干ばつに象徴される希有な天候の期間がつづき、世界の食糧貯蔵量が枯渇するのではないかという警告が発せられた。異常気象による災害が頻繁に起こり、これに対する慈善事業が多く行われるようになった。

異なる方向をもった現象が微妙なバランスで成立している様相が、社会に不安を醸すようになっていく。このような不確実な状態に答えを与えるため、1973年に日本の気象庁が世界中の気象サービス会社へ質問状を送った。しかし、実際に起こっている現象に対する科学的説明について、何の合意も見出すことができなかった。どの国でも、明確な判断を導く意見は認められなかった。そのうちの幾つかが、寒冷化が始まったと報告したことは、今になってみて興味ある。

ここで、1973年に気象庁が行ったアンケート調査(気象庁, 1974)について紹介しておこう。世界気象機関(WMO)加盟の主要30ヶ国の気象機関を調査対象とし、近年の世界の異常気象の実態とその長期見通しを調査事項とした。回答は23ヶ国から寄せられた。重要な点は、丁度この時代には1940年代以降の気温低下が認識されていたことである。特に後者の事項について、主な回答を要約する。

アメリカ大気海洋庁(NOAA)の回答は次のようである。天候変動の様相の大部分は偶発的、一部が系統的であり、系統的な変動の一つとして世界の広大な領域で寒冷化の進行が認められている。具体的には、北極圏の氷原の拡大や山岳氷河の前進が始まったと考えられる。偶発的、系統的の双方ともそれを説明する原因は見つかっていない。世界の気候変動の原因が解明されなければ今後の気候予測は不可能である。また、将来予測の際に留意すべき点は、(1)人間活動の影響が大気を暖める方向に働く。この規模は、エアロゾルによる寒冷効果を上まわる。(2)ミッチェルの個人的な見解だが、現在起こっている寒冷傾向は今後10年から20年以内に終息しそうである。(3)現在の間氷期はすでに約1万年継続しており、今後あまり長くは続かないと考えられる。

カナダ大気環境局(AES)の回答は、現段階では気候変動の将来予測に対してやや否定的で、自分たちは研究には取り組んでいないとした。西ドイツ気象局は、異常気象が増加している原因として、通信技術の発展やそれまで開発が進んでいない地域への人間の進入で情報が集まりやすくなった点をあげ、気候変動や異常気象の将来傾向の予測は非常に危険であるとのべた。

またイギリス気象局は、1900年から1939年に暖冬が現れて幾分異常だったとした上で、現在の気象学では今後10年以上の気候変動の推定は不可能で、たとえ将来予測が可能な場合でも長い気候学的な記録に基づく必要があると回答した。この他、タイ、ニュージーランドほかの回答は、おしなべて将来予測に否定的、または関係する研究や調査自体を行っていないので見解が述べられないというものだった。

気候がどの方向へ変化しつつあるのか、それもどの地域で、という人々の疑問に対し科学者達は説明する責任があったが、彼らに気候変動のメカニズムを探る決定的な手立ては無く、後述するHansen et al.(1981)の研究が世に出るまで答えを出すことはできなかった。例えば、火山から噴出した微粒子は寒冷化に効果的であるが、その量的な影響を知ることは出来なかったのである。一方、人為的汚染、例えば土地利用の変化で浸食された大地が生まれ、そこから発生した粉塵や、工場からの煙霧が増えて日射が遮られ、地球表面が冷却することに注意が向けられた。多くの専門家達は、地球気候に決定的に影響すると考えられる大気汚染をこれまで野放しにしてきたことに、懸念を投げかけた。

地球が寒冷化に向かうことを示す新たな見解が、海洋学者の研究結果から導かれた。地球の気候は、太陽活動の長期の揺らぎに依存するとうものである。これは、ミランコビッチ周期と関連して議論された。ミランコビッチ周期は、何万年もの長い期間について地球の軌道の僅かな変化をもとに見出したものである。

さて、話しをハンセンのモデル研究が発表される以前のころに戻そう。マイアミ大学海洋科学研究所のCesare Emilianiが、カリブ海の海底からサンプリングしたコア試料を解析し、コア堆積物に含まれる酸素同位体比から推定した深海水温の変動周期と、過去のミランコビッチ周期が極めて良く一致する事実を発見した(Emiliani, 1966)。僅かな変化が、太陽から入射するエネルギーに周期的な変化をもたらし、地球の気候がそれに応答する。この関係に基づき、地球気候が次の氷河期に向かって変化すると指摘されたのである。

参考文献

  • Hansen, J.,  Johnson,A. Lacis,S. Lebedeff,P. Lee,D. Rind and G. Russell: Climate impact on increasing atmospheric carbon dioxide. Science, 213, 957-966. 1981
  • Emiliani, C.: Paleotemperature analysis of Caribbean cores P6304-8 and P6304-9 and a generalized temperature curve for the past 423,000 years. The Journal of Geology, 74 (2), 109-124. 1966
  • 気象庁:近年における世界の異常気象の実態調査とその長期見通しについて.気候変動調査研究会,347p.1974
  • ミランコビッチ周期解説図:http://www.gaia.h.kyoto-u.ac.jp/~ishikawa/Lecture/Grad/Grad-05.pdf#search=’%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%81′

ミランコ図

地球温暖化曲線の系譜(7)温暖化それとも寒冷化?

1961年1月のニューヨークで雪の多い異常な寒さの日に、J. Murray Mitchell, Jr、アメリカ気象局の気候オフィスに所属する研究者、は気象学者の会合で、地球の気温は下降していることを報告した。彼は、カレンダー(この頃、最初の発表以降、自ら地球気温の記録を更新し、変動しながらも上昇傾向を示すグラフの修正版を発表していた)とは独立に、地道に入念な計算を行い、全球に及ぶ地域を対象としたもっともらしい平均気温を得るに至っていた。彼が示した結果は、地球平均気温はほぼ1940年まで上昇したが、その後、場所また年による非常に不規則な変動があるが、今や下降に反転したことを示した。

ミッチェルは、大気中のCO2濃度の上昇は気温上昇をもたらすということを認めつつ、最近の火山爆発と、恐らく周期的に起こる太陽活動の影響が重なり、この時期に下降に反転したと考えた(これは、その後の研究で正しいことが証明されることになる)。しかし、当然のことながら「こうした説だけでは、最近の気温下降の規模を説明するに十分でない」と彼は感じていた。そこで、結論として「不思議な謎」とだけ言及した。彼は、この気温降下は80年ほど継続する自然の揺らぎである可能性があるとも指摘した。

古老の科学評論家、Walter Sullivanは、その後の1961年1月25日と30日のニューヨークタイムスで、気象学者達は気温が下降している実態に基本的に同意したが、その原因あるいはその他の気候変動の存在は同意できず、「さまざまな可能性が議論され、科学的事実との決闘に火花が散った」ことを紹介した。科学者ばかりでなく、一般に人々は、野外を歩く時の天候に特別な注意を払うのが常である。混迷しているように見える気候科学は、衆目の厄介者のような存在になった。地球温暖化が身近に起こっていると言われるなら、その真偽が注目の的となるのはしかたないことだった。

1960年代を過ぎ1970年代に入る時期に、全球平均気温は相変わらず寒冷化する傾向にあった。特に西ヨーロッパでは、記録に残る寒い冬が訪れた。実際に1970年代の研究では、北大西洋上の準定常長期天候周期変動の解析が進み、1960年代には極循環の流れがより南へ張り出すモードに移行していたことが知られていた。

1970年代初め、地球が暖まっているか冷えているか、再び気候の専門家達が集まって議論を行った。カレンダーはすでに亡くなっていたが、彼も気づいていた、今や厄介とも思われる気温の下方への曲がり角について気候の専門家達は議論した。ランズバーグといえば、彼の初期の見解、気候は恐らく移行状態の変動を呈しているに過ぎないという見解、にたち戻った。またこの一方、大気汚染とCO2の温室効果は限られた地域で気候に影響しているかも知れず、従って「全球規模では、未解明の自然の力が卓越していることが考えられる」とした。同時に、賢明にも、遠い将来の地球環境の変化の見通しに関連して「自己満足に陥るべきでない」と付け加えた。

地球温暖化曲線の系譜(6)気候学者の葛藤

再び1930年代から1950年代における地球規模の気温変動の図を見てみよう。地球規模の気温上昇傾向が現れてはいたが、当時の多くの気候学者はこの曲線を知るよしもなく、地球温暖化は信じがたいものだった。というのも、それまでの常識では、観測データ数はとにかく膨大で、おまけに不規則に変動しており、全体として怪しげな変動を示すものとして見なされていた。専門家達によると、気候は長期間を通して相変わらず十分に一様性を保っていると考えられていた。当時、最も尊敬されている気候学者の一人であるHelmut Landsbergでさえ、1946年に「現実として、今後数十年で我われの住む気候が変わるだろうという点について、信ずるべき理由がない」と述べている。気温が高い年と低い年がほぼ同様の頻度で起こるため「もし数十年間にある地域の気温に明瞭な変化があっても、それはその地域で固有な周期を持った現象なので、結局のところ平均場としては元に復元する」というわけである。

こうした状況に加え、高緯度地域の気温に注目していたスエーデンのHans Ahlmannは、20世紀はじめの明瞭な気温上昇を発見した。しかし1952年になって、再び高緯度の気温が下降していることを見出した。これは気温上昇が継続していない事例であった。このような経緯を背景として、当時の気候学者達は、CO2放出による温暖化の議論が「過去数年間で衰退した」と決めつけた。つまり1930年代以降の気温上昇は特定地域の現象であり、氷河期の出現のような広域かつゆっくりした気候変化と比較して「気候の揺らぎは小規模にとどまっている」と認識し、地球規模の温暖化を否定したのである。

そうした状況のもとで、カレンダーが1820年代から1930年代に現れた気温上昇を発表したのは1938年である。その気温上昇は1940年のはじめころまで継続することになる。その後、1950年代から1960年代にかけて徐々に曲線は上昇を止める。この、いわば気温上昇が抑制された変動は若干下降傾向さえ示しながら1970年代中頃まで続く。ただし、この実態を示す図が公表されるまでには少し時間を要した。当時の社会では地球温暖化説が取りざたされる一方で、体感する気候は逆の方向に振れつつあったことになる。

気候は平均値の周囲を揺らいでいる、という考えは、年代が進むに従い変わりつつあった。1958年になるとランズバーグは、「気候学の最近の傾向」という論文をサイエンス誌に投稿した。この論文には「近年、気候は純粋に記述的な科学から変革し、物理学に根ざした科学へ変わりつつある」という副題が付けられていた。気候学の役割についても考え方が変わり、大スケール現象のみを対照とするのではなく、さまざまなスケールの現象を介して植物や動物の環境とも関係する幅の広い学問と考えられるようになった。

同じ頃、1959年に著名な気候史家Hubert H. Lambは「気候は標準の状態を取り扱うという考えを変えなければならない」と述べた。最近の10年間の気候は、過去のどんな標準を使っても当てはめることができず、また今後の10年間の標準として使用することもできないと指摘した。このころ気温は上昇を止めて下降に転じていた。ラムは、このいわば停滞現象が地域的に現れた「低温側への揺らぎ」と見なした。この卓越した考えは,中世にさかのぼる長期の気候解析で自分が身につけたものだった。また彼は、地域的な気候変動であっても簡単に止まないと主張した。それにもかかわらず多くの学者達は、見かけ上の平均へ向かうような反転傾向を目にして、しばらく前に予想された変化が実は特定地域に限られた現象であるという考えに陥った。もしその時点において、温暖化が地球規模で起こっている真実だという合意があったなら、温暖化防止策がより早く検討されていただろう。地球温暖化の科学史のなかで、この検討は1980年代になってやっと行われることになる。

参考文献

Landsberg, H.E.: Current problems in research-Trends in climatology. Science, 128, 749-758. 1958

Lamb, H.H.: Our changing climate, past and present. Weather, 14, 299-318. 1959

地球温暖化曲線の系譜(5)さまざまな工夫

カレンダーの研究から少し遅れ、Willett(1950)もWWR(World Weather Records)に収録された129地点のデータを使い、1845年から1940年までデータベースを更新し、全球気温変動の時系列を作成した。ウィレットは次に示すように、可能な限り注意深く連続しかつ均質なデータを選ぶことで、より信頼性を高めることを試みた。例えばヨーロッパなどは相対的に観測所が密に分布するため、平均値を求めた場合にこの地域の気温を過大評価した結果となる。これを避けるため、緯度・経度10度のグリッド毎に最も信頼性のある一地点のデータを選ぶことで、空間的な均一性を確保した。その後、各観測地点の月平均値を5年平均値に加工し、1935年~1939年の平均値からの偏差を求めた。こうして、どの地域にも等しい重み付けを施した気温をもとに、全球平均気温の時系列変化を示した。

すでに述べたように、カレンダーは1961年に1938年の曲線を改良したが、この際、Willett(1950)の結果を参照した。カレンダーが改良したのは観測地点数を増やすことで、独自の質的管理条件をクリアした約600地点のデータを使用した。ほぼ時期を同じくして、ウィレットが指導したMitchell(1963)が、ウィレットと同じデータベースに200地点以上の気温時系列データを追加して1959年までを更新し、解析した。緯度・経度10度ごとに観測点を一ヶ所選ぶ方法は以前と同じだったが、緯度10度の地帯ごとに表面積を求め、その面積を考慮した重み付けを施して全球平均気温を求めた。この方法により観測点の空間代表性が一層確保され、全球平均値の概念にふさわしい平均気温の算出が可能になった。

ミッチェルの曲線(実際には折れ線)は緯度帯の面積を考慮して重み付けをしたので、同じデータベースを使ったウィレットの曲線より変動の幅が小さくなった。両者の比較を図1に示す。上段は年平均気温、下段は冬季の平均気温(いずれも5年平均値)で1880~1884年の平均からの偏差(単位:華氏)で示してある。実線は面積で重み付けした結果、破線はウォレットの方法(面積の重み付けなし)である。1800年代以降、年経過とともに両者の差は拡大している。低緯度の観測地点のデータが代表する面積は高緯度のそれより広いので、地球平均値に対する寄与率は大きくなければならない。地球規模の気温上昇は高緯度でより顕著に進んでいる現象を考えると、重み付けにより高緯度地帯の気温の影響が小さくなり、その結果、合理的な方向へ修正されたことが分かる。

ところで、高緯度の昇温速度が低緯度より早い現象は、地球温暖化の際立った特徴の一つである。これは、表面が白く反射率(アルベド)の大きな積雪や氷に覆われた高緯度地帯では、気温上昇とともに雪や氷が溶けて黒っぽい反射率の小さい地面が現れる。その結果、地表面がそれまでと比較して太陽放射エネルギーを多く受け取り、下層から大気を暖めて気温上昇に拍車がかかるためである。この現象を、アイスアルベド・フィードバックという。将来を予測する大循環モデルにはこのプロセスが組み込まれているため、急速に高緯度地帯の気温が上昇するシミュレーション結果となっている。雪や氷が融解すると、湿地が現れ、主要な温室効果ガスであるメタンが発生する。すると、ますます温室効果が進んで気温が上昇する。従って、アイスアルベド・フィードバックは、地球温暖化の過程において正のフィードバックとして働く。

なお、メタンは二酸化炭素を1とするとその約25倍(現在の濃度および分解するまでの寿命から算出される今後100年間の平均状態に依存)の温室効果の強度を持つガスである。すなわち、現在の大気中のメタン濃度は二酸化炭素の約1/200と少ないが、同じ濃度だけ増えた場合を比較すると、メタンは二酸化炭素の約25倍の温室効果を引き起こす。この強度の基準を地球温暖化係数と呼び、温室効果ガス排出削減策や温室効果ガス排出シナリオなどの議論を行う際にガスの種類を区別する指標となる。

さて話しを戻そう。ここで紹介したMitchell(1963)の論文は、ユネスコとWMO(世界気象機関)が共催した乾燥地域の環境問題に関する「ローマ・シンポジウム」の講演集に収録されている。シンポジウムでは、新しい知見の集約だけでなく乾燥地域に暮らす人々の生活改善に貢献することが目的に掲げられていた。ミッチェルの論文の要約には次のように記載されている。このシンポジウムの興味は恐らく過去1世紀の温暖化により熱帯がどのていど昇温に寄与しているかを知ることだ。低緯度地帯、すなわち北緯30度~南緯30度の地帯の平均気温は、1880年から1940年にかけて約1°F(0.6℃)上昇し、その後下降傾向となった。

ここで図を見ると、一つの特徴、1940年以降に下降している特徴に気づくだろう。この過去の気温への復元を暗示するような変化は、その後、揺らぎながらも1970年代まで続くことになる。すでに述べた、晩年のカレンダーが抱いた憂鬱は、まさにこの気温降下の時代に遭遇したできごとだった。地球環境の変化を知り将来を予測して対応を考える場合に、この時代に現れた地球規模の気温の下降現象も正しく理解しなければならない。この気温下降の要因に関しては、後に触れることにする。

 

参考資料

・Mitchell, J.M.: On the world-wide pattern of secular temperature change. In: Changes of Climate. Proceedings of the Rome Symposium Organized by UNESCO and the World Meteorological Organization、Arid Zone Research Series No.20, UNESCO, Paris, 161-181. 1963

・Willett, H.C.: Temperature trends of the past century. In: Centenary Proceedings of the Royal Meteorological Society. R. Meteorol. Soc. London, 195-206. 1950

 

5年平均した地球の地上気温変動(1880~1884年の平均値からの偏差)上段:年平均気温、下段:冬季平均気温、破線:ウィレットの結果、実線:ミッチェルの結果(緯度帯の面積により重み付けした結果)

5年平均した地球の地上気温変動(1880~1884年の平均値からの偏差)上段:年平均気温、下段:冬季平均気温、破線:ウィレットの結果、実線:ミッチェルの結果(緯度帯の面積により重み付けした結果)

地球温暖化曲線の系譜(4)カレンダーの発見

気候は一定の状態のまわりで揺らいでいる、という専門家の認識があるなかで、一人の英国の技術者(英国電気産業連盟研究協会、蒸気機関技師)、Guy S. Callendar、の興味を刺激したのは温暖化の影響を報じる新聞や雑誌の記事だった。地球が暖まっている実態を解明する面白さが、素人の彼を熱心な気候の研究者へと駆り立てた。当時、観測データには質的な検査に十分注意が払われていなかったため、グラフを描いたとしても、観測値が不規則に変動する結果をみて恐らくその先をあきらめたことだろう。

カレンダーは綿密な解析に取り組んだ。多数の気象観測所のデータを収集して質の良いデータを抜き出し、現在のようにコンピューターは使用せず紙と鉛筆で計算するという作業に膨大な時間を費やした。これらの作業は、熱機関技術者としての業務とは別にプライベートな時間に行われた。彼の膨大な記録ノートのコレクションがEast Anglia大学に保管されている。

解析結果は、論文にまとめられて1938年に発表された。論文のタイトルは「二酸化炭素の人為的な発生とそれが気温に及ぼす影響」であり、アレニウス以来の温室効果の理論を、進行中の気温上昇に結びつけて議論したものである。初めて公表された地球の平均気温の時系列を図1に示す。私たちが現在目にする時系列変動の曲線と比較すると、フリーハンドで描いた頼りない曲線に見える。しかし、この曲線が当時の人々、特に気候学者達に与える衝撃は大きかった。彼は、結論の一つとして、地球の平均気温が1890年から1935年にかけて疑いなく上昇したと述べた。この上昇温度は0.5℃に近い値だった。

図は論文の後半部分に挿入されていて、人間活動から排出された二酸化炭素の影響を実証するために使われている。この意味で、論文は優れた先見性を持っていた。論文の反響は、彼自身に、さらにもっと大胆な考えで研究を進めるべき確信を抱かせた。

カレンダーは、後日、観測地点の数を増やし、全球平均だけでなく帯状平均値や季節ごとの平均値を発表した(Callendar, 1961)。彼の時代には、まだ海洋上の観測データを使用していない。現在広く認められているデータベース(CRUTEM4)の中からカレンダーが解析の対照とした緯度帯の陸上のデータを抽出して作成した曲線と、カレンダーが作成した曲線との比較結果を図2に示す。1961年の曲線とCRUTEM4を使った結果者の相関係数は0.92と非常に高かった。

論文が世に出た1938年ころはどのような世相だったろう。まず1914~1918年の第1次世界大戦と1939~1945年の第2次世界大戦に挟まれている。1940年にはドイツ軍がポーランドへ侵攻し、イギリスを含む連合国はダンケルクの戦いで撤退を余儀なくされた。ロンドンは頻繁にドイツ軍の爆撃を受けたが、霧の発生とドイツ軍の爆撃との関係があった。カレンダーはこの頃、軍事に関わる霧の発生・消散の研究に従事した。

カレンダーの地球規模の気温変動に関する業績については、Hawkins & Jones(2013)にまとめられている。概要は次の通りである。1938年の論文が発表されると、化石燃料の燃焼で生成された二酸化炭素が地球の気温を上昇させる現象は「カレンダー効果」として知られていた。気温上昇の原因の一つである、都市のヒートアイランド効果の影響についても研究した。観測地点の場所を市街と郊外に分けて解析したところ、市街地で気温が高まる効果は全球の平均気温には影響しないと結論づけた。しかしサンプルの数は少なかった。ヒートアイランド効果の影響については、後にIPCCが詳細な検討をおこない同様の結論を導いている。また、国際地球観測年の事業で1958年に有名なマウナ・ロアにおける二酸化炭素濃度の長期観測が始まったが、これには、カレンダーが先鞭を付けた地球温暖化人為起源の実証ともいうべき研究が役割を果たした。

カレンダーの晩年にあたる1962年と1963には、ヨーロッパの気候は一転し冬は厳寒に襲われた。重い足取りで、道路に積もった雪をシャベルで除雪する彼の姿があったという。1970年代になると再び地球温暖化曲線は上昇を始めるが、それを知ることなく1964年に彼は世を去った。変動する地球の気温と同じように、カレンダーの生涯も波乱に富んでいたことがうかがわれる。

参考論文
  • Callendar, G.S., 1961: Temperature fluctuations and trends over the earth. JRMS, 87, 1-12, DOI: 10.1002/qj.49708737102.
  • Hawkins, E. and Jones, D., 2013: On increasing global temperatures: 75 years after Callendar. QJRMS, 139. DOI: 10.1002/qj.2178.
  • Global Warming Science And The Wars: Guy Callendar http://hubpages.com/hub/Global-Warming-Science-And-The-Wars
図1 カレンダーが1938年に作成した地球温暖化曲線

図1 カレンダーが1938年に作成した地球温暖化曲線

 

図2 カレンダーの曲線(実際には折線)と最近のデータベースから求めた曲線の比較

図2 カレンダーの曲線(実際には折線)と最近のデータベースから求めた曲線の比較

 

地球温暖化曲線の系譜(3)自然の揺らぎそれともトレンドをもった変動?

1900年代の始め頃に時代を戻そう。当時から、気象学の最も興味ある問題の一つに、数年~10年程度で地域的な広がりをもつ気候変動が知られており、原因としては大規模な大気循環の揺らぎにともなった現象として考えられていた。ちょうどこの頃、1911年と1920年の10年間に中央ヨーロッパの冬が異常な温暖化を示した。

これに興味をもったBrooks(1923)は、1911年から1920年の1月、2月、12月の平均気温を何地点かについて長期平均値(1851年から1910年の平均値)を比較した。すると、デンマークからバルカン半島にかけた広大な地域で3°F(約1.7℃)を超える高温が出現していた。ブルックスは、この温暖化現象が「ブリュックナー周期」のアナロジーで説明できると考えた。だたし彼自身が述べているように、ブリュックナー周期は過去において高温より低温をもたらすものとして認められている。

そこで仮説を交え、19世紀以降の太陽黒点数(大気循環の強さを示す指標)の減少が、副産物として亜熱帯大西洋高気圧とアイスランド低気圧の気圧傾度を減じさせたとした(実際、1911年~1918年の期間にアイスランドとリスボン間の平均気圧傾度が21.2mbから19.5mbに減少)。このアイスランド付近とアゾレス諸島付近をそれぞれ中心として両者の気圧場がシーソーのように変化する現象は、1920年代になり「NAO:北大西洋振動」と名付けられた。これに類する現象は、後に、テレ・コネクションとして広く知られるようになる。

暖冬が起こるプロセスとして、亜熱帯大西洋高気圧とアイスランド低気圧の間の気圧傾度の弱化と同時に、大西洋から吹く南西風の弱化が起こり、その結果、冬のヨーロッパでは低気圧の移動が少なく暖冬が現れると、ブルックスは考えた。この仮説は暫定的なものだったが、ブルックナーの35年周期の考えを基に提案された点は、「気候」という概念がどのように認識されていたかを知るよい材料である。

ここでブリュックナー周期について、Henry(1927)の論文を参照し、簡単に説明しておこう。スイス・ベルン大学の地理学者ブリュックナーは、1890年に、気候は平均して35年の周期で変動することを発見した。この数値は驚くほど確度が高く、もともとの論文を読んだ人なら誰でも取り扱ったデータの豊富さに圧倒されるだろう。ただし、周期の計算のもとになった証拠の大多数はヨーロッパの記録であった。それらは次の通りである。すなわち、(1)カスピ海水位、(2)出口の無い湖沼や海水位、(3)河川水位、(4)降水量、(5)気圧、(6)気温、(7)ブドウの収穫時期、厳しい冬の頻度、氷河の前進・後退、などだった。

その後1930年代になると、平年値より高温になる現象についてさまざまな記事や逸話がやりとりされ始めた。例えば、アメリカ気象局の気候部と作物気象部の長官は、1934年に次の様に述べた。「爺さんが子供だった頃には毎年冬は今より寒く、雪も深かったものだ」このような経験談は何よりも決定的だ、と。アメリカ東部と世界中のあらゆる場所に分散している多く観測点の気温を平均した結果、気象局が見つけたのは「爺さん」の話が正しく、1865年以降、多くの地点で平均気温が数度上昇したことだった。専門家達はこれが単純な周期的上下変動の一部と考えた。このような考えに従い、現在進行している「気候変動:Climate Change」は、気温が一定の方向性をもって上昇する現象でなく、一つの長期周期の変動であり「一般の気候の揺らぎの一部」と認識した。

引用文献
Brooks, C.E.P., 1923: A period of warm winters in Europe. Monthly Weather Review, 51, 29.
Henry, A.J., 1927: The Bruckner cycle of climatic oscillations in the United States. Ann. Association of American Geographers, 17, 60-71.

 

地球温暖化曲線の系譜(2)フーリエからアレニウスの時代

地球が温暖化しているという考えは、観測と理論の両者が互いに補償し合って成立するようになった。この経緯は、近代科学の発展の歴史そのものといってよいだろう。地球環境が変わりつつあることを感じはじめていた時代に、地球温暖化曲線はそれ自身が万人の興味をそそるものであり、気候学者や気象学者にとっては曲線の質的向上が重要な研究テーマになっていた。現在では、地球温暖化曲線は今世紀末まで予測されるようになり、緩和策(温室効果ガス濃度の抑制技術の開発)や適応策(広範な生態系への影響予測・評価と対策技術の開発)の議論の基礎となっている。

地球温暖化曲線にとって、いわゆる夜明け前の時代が、フーリエ(Fourier)、チンダル(Tyndall)、アレニウス(Arrhenius)が活躍した19世紀中頃から終わりにかけてと考えてよいだろう。最初に登場するFourier(1824)は、地表面の効果を除外して地球を包む大気中に取り込まれる熱について研究し、大気の温度が太陽から地球に到達する放射エネルギーのみで計算するより高温になる(大気が存在しなければ、地球の温度はいわゆる放射平行温度(約-18℃)になるが実際には15℃に保たれている)理由について初めて議論した。この現象は温室効果に他ならない。しかし彼の研究は、確かな結論に到達しなかった。フランス語で書かれた論文は1836年にアメリカで英訳された。

その後、イギリスの物理学者Tyndall(1861)は、二酸化炭素など特別な気体が赤外線を効率的に吸収する事実を実験的に示し、フーリエの研究以降多くの科学者の興味の対象となっていた大気の熱的特性に関する問題に一つの答えを与えた。すなわち温室効果ガスの発見である。彼は、いわゆるチンダル現象を発見した人物でもある。

スエーデンの著名な物理化学者Arrhenius(1896)が、Tyndallほかの結果を使い二酸化炭素の増加に対する全球気温の感度を推定した。このように、長期の気候変動に温室効果ガス濃度の上昇が影響することが指摘された。しかし現在知られているような、人為的な化石燃料燃焼が大気中の二酸化炭素濃度上昇の原因であることにはまだ言及されていなかった。アレニウスの研究は、近年の気候変動の解明のほか氷河期のように長期に及ぶ大規模な気候変動の解明に対して、むしろ大々的に利用されたようである。これに関して、同郷の友人であるEkholm(1901)が「地質学と過去の歴史からみた気候の変動とその要因」という論文で、彼の主張の裏付けとなる重要な証拠の一つにアレニウスの考察を引用している。

しかし、大気中の二酸化炭素濃度上昇で気候が変わるという説はまだ広く知られていない時代だった。この報告の核心である地球規模の気温変動を示す曲線が世に出るのは、1938年のCallendarの論文まで待つことになる。

引用資料(前回の文献も含む)
Arrhenius, S., 1896: On the influence of carbonic acid in the air upon the temperature of the ground. Philosophical Magazine, 41, 237-276.
Ekholm, N., 1901: On the variations of the climate of the geological and historical past and their causes. Roy. Meteorol. Soc., Meteorologiska. Ceq tral-Anstalten, Stockholm.(タイトルはスエーデン語の英訳)
Fourier, J., 1824: General remarks on the temperature of the earth and outer space. Annales de Chemie et de Physique, 27, 136-167.(タイトルはフランス語の英訳)
IPCC, 2007: Climate change 2007 – The physical science basis. Cambridge Univ. Press, 996p.
Mann, M.E. et al., 1999: Northern hemisphere temperatures during the past millennium: inferences, uncertainties, and limitations. Geophysical Res. Letters, 26, 759-762.
Tyndall, J., 1861: On the absorption and radiation of heat by gases and vapours. Philosophical Magazine Ser.4, 22, 169-94, 273-285.

地球温暖化曲線の系譜(1)はじめに

19世紀後半以降の世界平均気温の推移をみると、人々は1930年代には顕著な温暖化に直面していたことがわかる。1960年代になると、天気の専門家達が過去20年間に渡り寒冷化が起こったことを発見した。気候がこのように深刻な振舞いをするという,それまでにない懸念が生まれ,1970年代になると何人かの科学者がそのまま継続して地球は徐々に寒冷化することを予測した。当時この要因について,長期間を考えた場合に自然におこる周期現象,あるいはその当時産業から排出する量が増大したスモッグや煤塵などの大気汚染物質の影響と考えた。その後、大規模な火山噴火などが寒冷化の原因になることが明らかにされる。

一方、寒冷化を支持する科学者達以外は,そのような大気汚染の効果は一時的であり、温室効果ガスの排出が長期的には温暖化をもたらすと指摘した。寒冷化にせよ温暖化にせよ,彼らは自分たちの知識が限られていて、どちらの予測も推定の域をでないことも認識していた。しかし、その後の気候システムの理解の速度はめざましかった。1970年代後半に、温暖化が卓越するという見方は寒冷化論との論争に打ち勝ち、主に北半球の現象として現れた寒冷な期間は一時的かつ限られた地域の変化とされた。温暖化は21世紀に入っても続き、海洋の深部まで影響が及び気候システムに顕著な変化が起こったことが明らかにされた。

過去1000年以上に及ぶ北半球の平均気温変動を図に示す。上図はMann et al. (1999)によるもの、下図はIPCC第4次評価報告書(2007)がまとめたものでより再現精度が高い。下図の茶色はプロキシデータから求めたもので濃度が濃いほど確率が高く、黒線は気象観測データによる変動を示す。図には、中世の温暖期(1000年前後に現れた高温期)とその後の小氷期(1400年~1800年を中心にした低温期)、全期間を概観した場合のホッケースティック型の気温上昇、1940年代~1970年ころの気候ディミングなどを読み取ることができる。さらに最近では、気候ハイエイタスが現れ、地球の気候は消して平均値の周りを周期的に変動するものではないことがわかる。

このシリーズでは、The discovery of global warming(http://www.aip.org/history/climate/20ctrend.htm#M_8_)を参考にしながら、これまでに手元に収集した論文を手がかりにして、地球規模の気温変動曲線の系譜をたどる。なお昨年、「地球温暖化の科学的な根拠-観測と研究の歴史」(トップページのトピックスに「地球規模の気温上昇の研究史」)を連載したが、このシリーズではより広範な視点で、気温変動曲線の背景となった出来事や研究者達の論争に注目して解説する。

上図(Mann et al., 1999),下図(IPCC, 2007),本文中参照

上図(Mann et al., 1999),下図(IPCC, 2007),本文参照