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大石和三郎と高層気象観測

風船爆弾とジェット気流に関する文献(その1)

荒川秀俊博士の研究は、終戦直前の1944年後半から1945年始めに実施された風船爆弾作戦に必須のものでした。戦後、荒川秀俊が書いたジェット気流に関する論文(Arakawa)と、スミソニアン博物館が行った風船爆弾の調査報告書(Mikesh)を紹介します。

Arakawa-low-level-jet-1956

Mikesh-1973-balloon-bomb-smithsonian-inst

 

大石和三郎と高層気象観測 (12)エピローグ- 高層気象研究のパイオニア  (7月27日)

今から70年ほど前、1947年、シカゴ大学の気象学部に所属する研究者達が、ジェット気流に関する名高い論文を発表した(Staff Members, 1947)。この論文は、同時代に行われたRossby(1947)とRiehl(1948)ほかの大気大循環に関する研究に新しい知見を与え、ジェット気流の理解を推し進める役割を果たした。スタッフメンバーの論文には、極前線上の圏界面に広がる傾圧帯の図が描かれている。風速の増大は、太平洋岸上空から東側に延び、さらに西部大西洋にまで広がることが示されていたが、まだこの時代には、詳細な力学的背景は明らかにされていない。

大石は、館野高層気象台を創設して高層気象観測を行い、圏界面の少し下層に現れる強い西風、すなわちシカゴ大学のメンバーがジェット気流と命名した強風を、彼らより約20年先んじて観測に成功して図に示した。しかし、発見者として国際的に認められることはなかった(少なくとも、彼の生前に置いて、ジェット気流の発見者とされていない)。

彼は、幸運にも東京帝国大学で教育を受け、海外での経験も積んだ。写真は、1927年にドイツで開催された高層気象に関する国際委員会に出席した時のものである。中列の右から3人目が大石、前列右から4人目が「前線」の概念を組み立てたノルエェーのビャークネスである。その他著名な気象学者達が勢揃いしている。

獲得した知識を糧にして、大石は、日本の高層気象分野の研究発展を推し進める有力な一員に成長した。それは、明治復興の初期に日本が描いた姿そのものだった。嫉妬深く顕微鏡のなかに秘密を閉じ込め、それが医学の進歩を遅らせることとなったレーウェンフック(前回記事参照)と違い、精力的に観測をおこない、研究結果を客観的な事実として他者に伝える努力を怠らなかった。日本の科学技術の歴史にとって、黎明期でありまた難しい時代に行われたこうした活動は、賞賛に値することである。(おわり)

関連論文
Riehl, H., 1948: Jet stream in upper troposphere and cyclone formation. Trans. Amer. Geophys. Union, 29, 175-186.
Rossby, C.G., 1947: On the distribution of angular velocity in gaseous envelopes under the influence of large-scale horizontal mixing processes. Bull. Amer. Meteor. Soc., 28, 53-68.
Staff Members, 1947: On the circulation of the atmposphere in middle latitudes. Bull. Amer. Meteorl. Soc., 28, 255-280.

国際委員会

大石和三郎と高層気象観測 (11)大石が夢見たもの (7月23日投稿)

科学の発展を考えるとき強く感じるのは、地味な作業を重ね最初に未知の現象を発見した人物の学術的な貢献度が非常に大きいという点である。例えば、レーウェンフックは1674年に独創的な発想で顕微鏡を発明して微生物を発見したが、顕微鏡の世界に没頭し自分の趣味の域を超えることはなかったといわれる。その後、顕微鏡の視界にいた微生物と病気の関係を解明したのは約200後のパスツールだった。

では、1926年に大石が観測した冬季日本上空に現れる強風層に関する知見は、高層大気の力学研究の発展にどのように寄与しただろうか。この問いに対して、さまざまな感想が浮かぶ。気象学史のなかで、大石が強風層を観測した直後の1930年代は、上層大気の流れの議論が活発に行われた10年間としてとらえられていた。中緯度の擾乱の鉛直構造に注目が集まり、それらの構造を支配する物理的な概念が確立された時代であった。もし大石が書いた論文が英語だったなら。未知の現象を解明しようとする純粋な好奇心に導かれて、大石は研究を行い、世界平和へ向けた社会的活動ともいえるエスペラント語の普及の一環として、彼は自信をもって論文を書いた。エスペラント語で。彼の経歴からすれば、英語での執筆も十分可能だった。

大石が高層の強風を発見したころ、アメリカやヨーロッパの気象学者は大石の観測について無知だった一方、日本の軍部はこの事実を知って戦争の手段として利用することを考えた。軍国化が進む時代の中で、館野高層気象台の役割にひとつの使命が課せられた。風船爆弾による襲撃計画が練られ、実践的な効果を高めるために上層風発現の季節性の解明などが必要となっていった。科学者はしばしば、自らが発見した現象が何に利用されるか知らないものである。

シカゴ大学の研究チームがジェット気流の礎となる論文を発表したのは、大石が死ぬ僅か2~3年前だった。当時は科学論文の成果の伝達の遅れがあり、大石はこの新しい研究を知ることは無かったと考えられる。もし知ったとしたら、自らの先見性のもと観測施設を創設し、苦労を重ねて実施した観測が間違っていなかったことに喜びを感じただろう。しかし、国際的にはアメリカの研究者に遅れをとったことについて無念だったのではないだろうか。(つづく)

大石和三郎と高層気象観測 (10)風船爆弾計画の実態 (7月11日投稿)

風船爆弾は、第2次世界大戦が敗北にいたる過程で、最後の冬に計画された断末魔の作戦であった。とにかく「風船」を使った襲撃なので、この名前を聞いた当初は、急ごしらえの計画で多くても一日に何個かの風船を放球する程度の小規模な作戦と思った。しかしその実態は想像と大きく異なり、極めて綿密に計画され、大量の人員と物資を投入し、季節限定ではあったが大規模で期待を担って取り組まれた作戦だった。

風船爆弾が風に流される経路の推定だけでなく、素材の和紙の品質管理(当初海軍は風船の材質にゴムを使ったが、製作時のコストの問題と重量が増す点で不利な部分が多く、後に陸軍が主導して和紙を素材に使用しこれが本命となり大量生産された)、接着剤としてのコンニャク糊の製法、表面のコーティング技術、ガス漏れを検知するスステムの構築、放球を悟られないための情報管理(発射基地は人里離れた太平洋沿岸部に複数箇所設けられたが、近隣の住民に知られないように作戦を実行する必要があった)など、どれを取っても高度な計画性と作業工程の厳格な管理のもとで実現された。この作戦そのものが成功したか否かは別なのだが。

この計画が実行される過程がMikesh(1973)に詳しく書かれている。一部を紹介しよう。当初、北米大陸の爆撃が可能か否かについて「非現実的とは考えられない」といった、消極的な意見のもとで計画が走り出した。実現には、多くの困難な問題が横たわっていることが想像されていた。問題解決のために中心的な役割を果たしたのが、登戸研究所である。科学者と技術者の最初の会議が1944年5月に行われ、その直後に「フ号計画」と名付けられ、この作戦に対して当時の金額で200万円の予算がついた(最終的な経費は900万円に膨らむことになる)。この段階で、藤原咲平(1941年7月に、岡田武松の後を受けて第5代中央気象台長)らが計画全般を指導する役割を担うことになり、荒川秀俊が嘱託の命を受けて気象部門の研究を分担した。

冬期の強い偏西風が現れる期間に、集中的かつ効果的な攻撃を決行する必要があった。1944年から翌年にかけた冬期に、1万発の風船爆弾を放球することが決まった。気球の素材は和紙で、1個の風船が全部で600個の紙片で構成されていた。和紙を貼り合わせる糊の素材にコンニャクイモを使ったが、食糧難の時期にこれは苦しい判断だったに違いない。

風船の漏れを検査するために、室内で約直径10㍍に膨らませる必要があり、大きな劇場などの建物が使用された。さらに生産個数が増えるに従って、建設費用を節約するために日劇ミュージックホールや国技館が提供された(写真:Figure 13)。検査に合格した気球は表面に保護用ラッカーを塗布した。これらの作業には女子学生が動員された。大量生産のために数千人が作業に関わったが、かれらに対して何を製作しているかなどの情報が漏れぬよう厳しく統制された。

風船の製作が進む間、陸軍は計画実行部隊として気球連隊を編成した。彼らの仕事は、放球と放球後の追跡に相応しい基地の選定、風船に充填する水素ガス製造装置の開発、基地まで資材を運搬する経路の確保などであった。風船が北米大陸以外に飛んでいくことは避けなければならない。そこで、放球基地として福島県勿来、茨城県大津、千葉県上総一ノ宮が選ばれ、追跡基地として青森県淋代、宮城県仙台、千葉県大原が選ばれた。放球基地のうち、水素ガス発生装置を設置したのは上総一ノ宮だけだった(事実関係調査中です)。他は関東の化学工業会社から鉄道で運んだ。

こうして、1944年8月には、試験的な放球が行われるにようになった。8月29日に実施した放球試験の結果を図(Figure 10)に示す。3日間の追跡記録で、刻々高度が変化する様子が描かれている。日没時に高度が上昇する様子、バラスト投下で高度を制御する様子が読み取れる。この2ヶ月後から実際の風船爆弾攻撃が開始され、翌年の4月上旬にかけて合計9,300発が北米大陸へ向けて放たれた。最も頻繁だったのは、1945年の1月と2月で、それぞれ2,500発が放球された。(つづく)

参考文献
Mikesh, R., 1973: Japan’s World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Annals of Flight Series, Vol. 9, Smithsonian Institution Press, 85 pp.

日劇ホール 飛行バラスト

大石和三郎と高層気象観測 (9)強い西風の経路 (6月30日投稿)

話しを戻そう。荒川はさまざま思考し、日本列島の地上風と大石が求めた上層風を重ね合わせた。さらに、広範囲の海洋上の気温パターンを考慮して風船爆弾が流れる経路を予想した。苦労の末に荒川は、気象条件で異なるものの、風船爆弾が太平洋を横断するのに30~100時間を要すると予測した。戦後になって、実際に風船爆弾が日本からアメリカ西岸まで到達するに要した時間を計算したところ、72~120時間であることが示されている(Mckay, 1945)。一般的な経路を図(Fig.25, Mikeshより)に示す。上段は経路に沿った鉛直面の経路を、下図は平面の経路を描いたものである。蛇行する強い西風に乗って約3日間で北米大陸上空に到達したことが示されている。

荒川の予測はまとを得たものであった。大石の観測結果のほかにも太平洋上空の風の場の推定に参考にした。それは、館野高層気象台が開設される約20年前に、ティスラン・ド・ボールが世界で初めて行ったパイロットバルーンによる観測結果だった。ティスラン・ド・ボールといえば、この時の観測データを整理して成層圏を発見したフランスの気象学者である。成層圏の発見は1902年のことであった。それ以降、とにかく上層の風に関する情報は乏しかったのである。

はたして、日本軍は大石が世界に先んじて実態を明らかにした強い西風を利用し、1944年11月から1945年4月までの短い期間に約9000個の風船爆弾を北米大陸へ向けて放球した。この季節を過ぎて春になると、放球した風船が移動性高気圧や低気圧の周辺の気流に取り込まれ経路を定めることが不可能になる。戦争参加国以外の地域へ到達することは避けなければならないためである。従ってこの作戦は、もともと4月上旬で終了するものだった。

典型的な飛行軌跡を図に示す。これによると、いわゆるジェット気流の流れに乗って、バラストを微妙なタイミングで落下させながら3日間で北米大陸へ到達する様子が描かれている。短い期間に約9000個が放球されたうち、北米大陸に到達した風船爆弾の数は、アメリカとカナダを合わせると約300個、すなわち放球した数の僅か3%であった。(つづく)

参考文献
Mikesh, R., 1973: Japan’s World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Annals of Flight Series, Vol. 9, Smithsonian Institution Press, 85 pp.
McKay, H.W., 1945: Japanese Paper Balloons. The Engineering Journal, Sept., 563-567.

風船爆弾軌跡

 

大石和三郎と高層気象観測 (8)西風の風速の精度

スミソニアン研究所の出版物(Mikesh, 1973)には、藤原咲平の仲介で陸軍登戸研究所の嘱託になった荒川秀俊が、理論的な考察を加えて太平洋を横断する気流の経路を推定した、とある。荒川は、上空の強風層が冬期に最大となるという気候学的特徴、すなわち大石の研究結果に基づいて風船爆弾を運ぶ風系の推定を行った。

風船爆弾の経路と到達時間には正確を要することから、荒川は強風層の風速にどの程度の誤差が含まれるのかを知る必要があった。そこで「館野上空で76m/sに達する驚異的な風速の信憑性を明らかにするため、純粋に気象力学的な視点で問題を扱うことを考えた」と、荒川は後に述べている。その当時は、確率論的な手法で風船爆弾の経路を推定できるほど十分なデータが揃っていなかったのである。

その後に観測技術が向上し、レーウィンゾンデ(計測装置を搭載したゾンデの位置を無線で追跡する装置)を使った精度の良い観測が行われるようになり、大石の観測結果の検証が行われた。館野で1971~2000年の冬季に実施したレーウィンゾンデ観測と大石の観測を比較した結果を図(Fig.10, Mikeshより)に示す。両者による風速鉛直分布に示された唯一とも言える相違は、大石の観測の最上端付近の高度で5~10m/sほど強い点である。

大石の観測はほぼ正しく冬期の上層風の風速を測定していた。また、風向はほとんど一致した。レーウィンゾンデ観測による高度24㌔までの鉛直分布と比較することで、大石の観測は風速最大となる高度まで実施されたことがわかる。おそらく大石が放球したパイロットバルーンは、この高度の強風に流されて急速にセオドライトの視界から消えたことだろう。(つづく)

 参考文献
Mikesh, R., 1973: Japan’s World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Annals of Flight Series, Vol. 9, Smithsonian Institution Press, 85 pp.

 

プロファイル比較

大石和三郎と高層気象観測 (7)風船爆弾の誕生

日本軍がアメリカ本土を直接爆撃したのは、1942年2月に伊号第17潜水艦がカリフォルニアに潜入してサンタバーバラの製油所を砲撃したのが最初である。この作戦による被害は限定的だったが、アメリカ軍を驚かすには十分であった。しかしその後は、広範囲の沿岸域に厳しい警戒網が布設されたため成功することは無かった。そのような状況のなかで、第2次世界大戦が終わる少し前、1944年11月から1945年4月のごく短期間に、アメリカ本土空襲のために風船爆弾が開発された。

一方アメリカ軍は、1942年の4月、16機のMitchell爆弾を搭載したB25爆撃機が東京を急襲した。この作戦は、戦隊のリーダーであるJames DoolittleにちなんでDoolittle襲撃と呼ばれ、この大戦においてアメリカの飛行機が日本上空に現れた最初だった。Coast Artillery Journalによると、この日本襲撃が、その後の日本軍が全面的な報復に出る気運を誘発したと記述されている。日本軍は、飛行機、潜水艦、それに気球を使うことを考案し、そのうちの一つとして紙製の風船爆弾を作戦として具体化した。

ところで、日本軍が兵器として風船を利用したのは日清・日露戦争の時代に遡ることが出来る。当初は、通信手段としての利用が主体だったが、その後、綿々と開発が続けられて、第2次世界大戦が始まるころには、陸軍登戸研究所(現在は明治大学生田キャンパスの一部)が研究開発の中心になっていた。1942年6月には、ミッドウェー海戦に破れて戦況は悪化した。そこで日本軍は、一度成功した経験をもとに潜水艦でアメリカ本土の千㌔ほどまで近づき、そこから直径6㍍程度の風船爆弾を飛ばす「フ号作戦」を考案した。しかし潜水艦を使った作戦は、戦況がさらに悪化したために断念された。1944年10月には戦艦武蔵が撃沈され、直後に神風特攻隊が結成された。偏西風を利用して長距離を飛行する風船爆弾の作戦は、こうした状況のなかで実行に移された。風船爆弾の航路を計算した荒川秀俊は、1944年に陸軍登戸研究所の嘱託になった。

風船爆弾計画に関する学術的な説明文書が幾つか存在する。最も総合的なものは、スミソニアン研究所の後援で刊行された報告書(Mikesh, 1973)である(表紙を図に示す)。その他で有名なのは、捕捉的な情報ながらMcKay(1945)と1946年にCoast Artillery Journal に掲載された作者不詳の報告である。また、後になってAbe(1997)、伴(2010)、山田(2012)などの出版物があり、これらから、風船爆弾の詳細な構造と兵器としての使用方法を知ることができる。

風船爆弾の開発に強い西風の情報がどのように使われたか見てみよう。(つづく)

参考文献
Abe, T., 1997: The aerological observation and its history. J. Aerol. Observatory, 57, 41–58. (in Japanese)
Arakawa, H., 1956: Basic principles of the balloon bomb. Pap. Meteor. Geophys., 3–4, 239–243.
McKay, H., 1945: Japanese paper balloons. Engr. J., September, 563–567.
Mikesh, R., 1973: Japan’s World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Annals of Flight Series, Vol. 9, Smithsonian Institution Press, 85 pp.
伴 繁雄,2010:陸軍登戸研究所の真実.芙蓉書房出版,215pp.
山田 朗・明治大学平和教育登戸研究所資料館(編),2012:陸軍登戸研究所<機密戦>の世界.明治大学出版会,288pp.

スミソニアン表紙

大石和三郎と高層気象観測  (6)強風層の発現は突発現象か?

大石が1924年(大正13年)12月2日10時(地方時)に実施した観測の結果、高度1㌔以下のごく地上付近で東風となり風速は秒速数㍍だが、それより上層では西風に転じて風速が徐々に増大し、対流圏の中層の高度5㌔で秒速30㍍、高度9㌔付近で秒速70㍍以上の強風となることが明らかになった。彼は図を描きながら、さぞ驚いたことだろう。この現象がはたして観測時のみに発生した現象なのか定常的な現象なのか、大石は自問したに違いない。

この疑問に対する答えが明らかになるまでにはそう長い時間を要しなかった。判断の根拠となる成果は1926年に発表された。大石は上層観測結果を季節ごとに重ね合わせた図を作成したが、解析のもとになったのは1923年3月から1925年2月までに実施した1288回の観測の結果である。多くのデータを使い、結果を図(大石、1926)に示す季節ごとの平均風速と風向の鉛直分布図を描いた。

上層に現れた西風には次の特徴が認められた。冬季の風速は他の季節と比べて非常に強く、高度10㌔で約70m/sに達した。これに対して夏季は風速が弱まる。春季と秋季は両者の中間程度の風速となった。冬期に現れる強風は、当時上空で観測した強風に関して推測されていたような変則的かつ短命な現象ではなく、日本上空で安定して出現することが示唆されたのである。

発現に季節性のある現象であることが明らかになり、さらに大石は興奮したに違いない。これまで知られていない大規模な大気の流れ、大気大循環の側面をとらえたのである。彼は、この強風に関する一連の研究をエスペラント語で書いた。なるほど、図にある春・夏・秋・冬はエスペラント語で記述されている。日本エスペラント学会のウェッブ情報を見ると、大石は1930~1944年のあいだ第2代の理事長を勤めたことがわかる。彼は、1926年~1944年の間に19編の高層気象に関する論文を発表したが、その全てがエスペラント語で書かれたものである。

何故彼はエスペラント語で論文を書いたのだろうか。その理由は、自らの業績が理想の社会で開花することを夢に見ていたからと考えられる。当時一般的であったドイツ語や英語で発表しなかったことが、実質的に彼の業績を国際的な学会の目から遠ざけた結果となった。日本国内でも、大石の一連の研究成果を学術的な客観性をもって理解することを難しくさせたと考えられる。その結果、大石をしてジェット気流の発見者と認めることはなかった。

約20年後、第2次世界大戦中、彼が観測した「ジェット気流」を利用して風船爆弾によるアメリカ本土爆撃の作戦が実施される。またその直後には、日本を爆撃するために太平洋諸島から離陸して西に向かう爆撃機が経験のない強い「ジェット気流」に遭遇する。戦後1947年~1948年になって、アメリカのロスビーらがこの強い西風に関する論文をまとめ、国際的な学術の場で「ジェット気流」の発見がなされた。

風船爆弾は、日本軍が使命としていたアメリカ本土空襲を可能とさせたことになる。想像するに、大石が死去したのは1950年(昭和25年)だから、晩年に相当複雑な思いだったに違いない。第2次世界大戦の末期に、大石が観測した「強い西風」の存在は極秘情報の一つとして取り扱われ、荒川秀俊らによって解析が加えられた。この研究報告については、別の機会にのべることにする。(つづく)

参考資料  大石和三郎,1926:館野上空に於ける平均風.高層気象台彙報, (2),1-22.

季節別プロファイル

大石和三郎と高層気象観測 (5)強風帯の発見

1921年4月に館野での高層気象観測が始まった。「長峰回顧録」(1950、大石)によると、当初、高層観測運用には一連の技術的な困難さがありそれが運用を遅らせる原因になった。1921年の終わり頃までに、定時観測の記録が整理されたが、信頼性のある気候(平年の状態)を示すことができたのは1923年の始め頃である。こうした経緯は、最初の年報の記事(大石、1926)から判読することができる。

1924年12月2日のことである。大石は晴天の館野で目を覚ました。前日に寒冷前線が通過した。1日と2日の地上の総観天気図をそれぞれ図5と図6に示す。彼が実施した観測の時点では描かれていなかったものだ。天気図からわかる特徴は次の通りである。

  • 大きな低気圧がオホーツク海上に位置し、この中心は24時間後には緯度7℃(約800㌔)北方へ移動。
  • 高圧部の中心(770mmHg、1025mb)が中国大陸から、24時間後には黄海方面へ移動。
  • 12月1日に、北海道から本州の中央部にかけて、強い偏西風が出現。北海道の北西部、羽幌では、29~35m/sの強風となった。さらに、緯度方向の気圧の高まりに沿って30℃に及ぶ気温差が現れ、中国北東部から台湾にかけた明白な気温の南北傾度が現れた。

大石はこの状況下で、12月2日10時(地方時)に、120gの気球(約半径1m)を放球し、シングルセオドライトで追跡した。シングルセオドライトで軌跡を求める(気球の位置で風速を算出する)ためには、一定の上層速度を過程する必要がある。設計した上昇速度は300m/分で、30分後に上空9kmに達した。この観測で、ちょうど10km(33000フィート)より少し下層の高度に、風速72m/s(約140ノット)の明瞭な西風があることが捉えられた。大石が描いた鉛直方向の風速分布を図7に示す。

セオドライトに関する工学的な知識がないと風速の測定誤差の検討は困難だ。現在の時点でイギリス気象局が定めた高層観測指針(1961)に照らし合わせると、高度10kmで約±15m/sの誤差が考えられる。この計算は、方位角と高度に0.1°の誤差を考慮したもので、大石が行った手順(大石、1926)と西風の安定性を考えると、この時の風速誤差は±10m/s以下と考えることができる。いずれにせよ、風速72m/sという強風帯を大石は発見した。

参考文献
大石和三郎,1950:長峰回顧録.高層気象台彙報,特別号 付録,2-73.
大石和三郎,1926:館野上空に於ける平均風.高層気象台彙報,2,1-22.

 

大石和三郎と高層気象観測 (5)強風層の発見

1921年4月に館野での高層気象観測が始まった。「長峰回顧録」(1950、大石)によると、当初、高層観測運用には一連の技術的な困難さがありそれが運用を遅らせる原因になった。1921年の終わり頃までに、定時観測の記録が整理されたが、信頼性のある気候(平年の状態)を示すことができたのは1923年の始め頃である。こうした経緯は、最初の年報の記事(大石、1926)から判読することができる。

1924年12月2日のことである。大石は晴天の館野で目を覚ました。前日に寒冷前線が通過した。1日と2日の地上の総観天気図をそれぞれ図5と図6に示す。彼が実施した観測の時点では描かれていなかったものだ。天気図からわかる特徴は次の通りである。

  • 大きな低気圧がオホーツク海上に位置し、この中心は24時間後には緯度7℃(約800㌔)北方へ移動。
  • 高圧部の中心(770mmHg、1025mb)が中国大陸から、24時間後には黄海方面へ移動。
  • 12月1日に、北海道から本州の中央部にかけて、強い偏西風が出現。北海道の北西部、羽幌では、29~35m/sの強風となった。さらに、緯度方向の気圧の高まりに沿って30℃に及ぶ気温差が現れ、中国北東部から台湾にかけた明白な気温の南北傾度が現れた。

大石はこの状況下で、12月2日10時(地方時)に、120gの気球(約半径1m)を放球し、シングルセオドライトで追跡した。シングルセオドライトで軌跡を求める(気球の位置で風速を算出する)ためには、一定の上層速度を過程する必要がある。設計した上昇速度は300m/分で、30分後に上空9kmに達した。この観測で、ちょうど10km(33000フィート)より少し下層の高度に、風速72m/s(約140ノット)の明瞭な西風があることが捉えられた。大石が描いた鉛直方向の風速分布を図7に示す。

セオドライトに関する工学的な知識がないと風速の測定誤差の検討は困難だ。現在の時点でイギリス気象局が定めた高層観測指針(1961)に照らし合わせると、高度10kmで約±15m/sの誤差が考えられる。この計算は、方位角と高度に0.1°の誤差を考慮したもので、大石が行った手順(大石、1926)と西風の安定性を考えると、この時の風速誤差は±10m/s以下と考えることができる。つまり大石は、風速62m/s~82m/sと考えられる強風帯を発見した。

参考文献
大石和三郎,1950:長峰回顧録.高層気象台彙報,特別号 付録,2-73.
大石和三郎,1926:館野上空に於ける平均風.高層気象台彙報,2,1-22.

12月1日天気図 12月2日天気図 強風発見図